作左の由来




江戸時代後期に描かれた、古地図「浜松御城下略絵図」には、浜松城北西部に南北に長いこんもりとした丘が見られる。これが「作左山」である。
現在の松城町は、明治15年、馬冷・作左・袋町の三字が合併して生まれた。
作左山は、本多作左衛門重次が戦国時代に浜松城の備えとして、普請した曲輪である。

本多重次は松平清康・広忠・家康の三代に仕えた、家康の老臣の一人。
天正13年に岡崎城代になり、その後、下総国相馬郡井野に所領を与えられ、68歳で没するまでこの地で暮らした。本多重次は地名にその名前を残しただけでなく、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という短い手紙が有名である。これは長篠の合戦の折、留守を守る妻に当てた手紙である。「お仙」とは後の本多成重の幼名「仙千代」のことで、家康に仕えこの人物は越前の国丸山城主に出世している。

作左曲輪は長く浜松城の北西の守りとなっていた。本校はこの由緒ある作左山の一角に位置している。そのためこの「作左」の名を取って、本校では生徒を主体とする活動を「さくざ」と称し、大切にしてきた。

校歌や家庭への通信にもこの名は使用され、この歴史上の人物を大切に扱っている。