学区の状況
戦後4地区に大規模開拓が行われ、厳しい条件の中で根気強く土地開発をし、 生活の安定をはかってきた。昭和29年に浜松市と合併した。その後三方原用水の着工により、大規模な農業地域となった。 昭和39年以降、金指街道沿いに商店・住宅が急速に建ち並び都市化の様相になってきた。一方広大な土地を生かし、 文化施設等(高等学校。養護学校、医療機関)も多く、また、テクノポリス構想も実現して、自治会を中心にさらなる発展の力強い歩みが感じられる。
 元亀3年(1572年)12月22日、徳川家康は武田信玄の上洛を阻止せんと、 武田軍およそ2万3千の兵力に対し徳川軍は、およそ1万1千の兵力を以て戦いを挑み、戦闘約2時間といわれるも、結果は大敗に終わった。
 これが三方原合戦である。
 戦いが展開されたのは、この三方原台地であるがそのところは定かでない。
 われわれは、この三方原の一角に、この碑を建て、その歴史の場を永く後世に伝えようとするものである。
 昭和59年7月吉日
  三方原歴史保存会有志
   
三方原開拓農協の横に立てられている。
   
開拓碑之記
当開拓地は土質不良の為古来農耕不適地として顧みる人もなく 大正末年より僅かに飛行隊の爆撃場として使用されたのであります。
大東亜戦争の敗戦により我国は国家崩壊の危機に曝されました。此の時に当たり我ら同志は、 国の緊急開墾の要請に応え危機に瀕した国家再建の礎石たらんとして当地に入植し不毛の大地に敢然として開墾の鍬を打ち下ろしたのであります。 本来栄養失調状態にある痩身に鞭打ち気力のみを以て開墾に従事しましたが千古、 鍬を知らない不毛の地は頑として我等の努力を拒否し開墾は遅々として進まず同志の疲労と窮乏は益々其の度を加へた為に死亡者、 脱落者続出しましたが後に残った同志は益々団結を強固にし初志の貫徹に邁進したのであります。 其の後幾多の試行錯誤を繰り返し乍らも入植以来30余年にして漸く中小家畜、柑橘、野菜等の産地として県下有数の地歩を占めるように至りました。 茲に於て同志相図り組合結成30周年を記念し碑を建て険しかった入植以来の道程を偲ぶと共に次代を継ぐ若き人々の精神的支柱となることを祈念するものであります。
            昭和53年5月吉日
三方原開拓農業協同組合 組合長 鈴木五郎
   
三方原公民館の隣地に立てられている。