「あらたま」の由来
静岡県浜松市立麁玉小学校
『しずおかけんはままつしりつ
  
あらたま しょうがっこう
と読みます。
★「麁」は『 』の俗字で,
 「粗い」「遠い」の意味があります。
 

★「麁玉」とは,『まだ磨かれていない玉』のことです。
【玉 磨かざれば 光なし】の碑


「あらたま」の由来(「旧浜北市史」より)
「あらたま」という名前がいつ頃から使われていたのかを,旧浜北市史を使ってまとめました。
記録 説明
6世紀前半 「三宅口」 → 「宮口」? 大和王権が,静岡県西部地方にも及んでいたと考えられています。わたしたちの学校がある「宮口」という地名は,大和王権直属型の服属の仕方として,寄進されていた「三宅」に関係があるという説もあります。もしかしたら,このころには「あらたま」という言葉もあったかもしれません。
694年 「荒玉評」と書かれた木簡

 初めて「あらたま」が歴史に登場
694年(持統8年)に造営された藤原京の跡から木簡がたくさん発掘されました。その中には日本各地からの荷札として使われた木簡があります。その中に「荒玉評」と書かれた木簡があります。この木簡に記された「あらたま」が初めて文字として残されたものであるといわれています。当時はまだ「郡制」ではなく「評制」ということですので,「荒玉評」とは後の「荒玉郡」ということになります。下の欄に紹介した木簡は合成して作ったものです。
718年 「遠江地震。
   山崩壅
麁玉。」

      「続日本紀」より
718年(和銅8年)5月25日の記録です。この文章の意味は,「遠江で地震があり,山が崩れたので麁玉河がふさがれてしまった。」という意味だそうです。この文の続きには,その水によって被害があったところが記録されています。この山崩れは,おおよそ浜北市内野から浜松市半田のあたりと推定されています。さて,この「麁玉河」とは現在の天竜川の古い名前です。同じ続日本紀の761年には,「荒玉河」と記されているので,当時は「あらたま」はいろいろな書き方をしたようです。
755年 主帳丁麁玉郡若倭部身麻呂

  「万葉集 巻二十」より
718年(天平勝宝7年)につくられた万葉集巻二十には,防人の歌が収められています。この歌の中に,わたしたち麁玉の地にすんでいた「若倭部身麻呂」という青年の作品があります。学校の西,数100mの場所に,今も若倭神社があります。
この万葉集の歌は「学区の万葉歌碑」のページで紹介しています。ぜひ御覧ください。
☆以降,現在まで「あらたま」という地名が使われています。生きている歴史という感じがします。
  なお,万葉集等での「あらたま」の表記については,次のようになっています。