福長浅雄さんについて

福長浅雄(1893~1980)

 福長浅雄さん(1893~1980)は、飯田小学校の卒業生で、日本初の国産旅客機「天竜十号」を製作した人です。 様々な困難にも負けずに努力を続け、自分の夢をかなえた福長さんの偉業を受け継いで、自分の夢に向かって精一杯努力していく姿勢を子供たちにも伝えようと、本校では様々な取り組みを行っています。
 

福長浅雄さんの略歴

1893年 大塚町の農家に生まれる。
12歳で小学校を卒業し、木材会社で働く。

生まれつき非常に研究心が強く、将来は飛行機の時代が来ると考えるようになる。
製材業は兄にまかせて、1911年、当時日本初飛行を成功させた徳川好敏の助手となり、無給で手伝いをする。1916年日本飛行学校第一期生に入学する。 1917年フランスから古い飛行機を買い入れ、組み立てや修理をして「天竜1号」を組み立てたがエンジンの力が弱く飛行できなかった。翌年グレゴアシップ型を購入し初飛行に成功したものの、着陸失敗で墜落した。このころから「墜落王」という名がつけられた。 1919年、天竜川河口に福長飛行機製作所をつくる。 弟の四郎、五郎と協力して飛行機の製作を始めた。

大正11年(1922年)国産として日本最初の6人乗り旅客機を完成させ、「天竜十号」と名付けた。
客室がある6人乗りで当時としては画期的なものだった。天竜10号は時速180キロメートル、滞在時間4時間の性能であった。この飛行機にはいろいろな新しい技術が取り入れられ、当時の最高傑作だった。しかし当時はまだ飛行機で人を運ぶ法律がなく、許可されなかった。人は運べなかったが、大正12年(1923年)の関東大震災では、交通網、電信、電話網などが寸断されたため、福長機が唯一の輸送動脈となり、情報伝達や物資の輸送などで活躍した。

昭和3年(1928年)天竜川の改修工事により、製作所は閉鎖され、浜松市の三方原に移転した。浅雄はその後、会社経営などに携わり、航空界への復帰はしなかった。
昭和55年(1980年)88歳で亡くなった。

参考文献:発見!いわた「磐田の著名人」~磐田市立図書館~
参考資料:浜松情報Book

飯田小学校 オリジナルソング 「大空にかける夢」

平成13年に本校職員が作詞・作曲しました。福長さんに関係する行事の時に歌っています。

1 すこし むかしの ことだけど
  ぼくらの まちの ふくながさんは
  おおぞらをとぶ あのとんびのように
  そらを とびたいと かんがえた
  なんども なんども ちょうせんし
  なんども なんども しっぱいし
  やっと つくった ひこうき
  そのなは てんりゅう 10ごう
  とべとべ ぼくらのひこうき
  みんなの ゆめをのせて どこまでも
  とべとべ ぼくらのひこうき
  みらいに むかって
  ゆめを おいかけて いこう

2 あれから ときが ながれても
  ぼくらの まちの そらや みどりは
  むかしのように やさしく いまも
  みんなを つつんで くれてるよ
  ぼくには おおきな ゆめがある
  わたしも すてきな ゆめがある
  きっと かなえられるように
  このまちが みまもってるよ
  とべとべ ぼくらのひこうき
  つばさをひろげて どこまでも
  とべとべ ぼくらのひこうき
  みらいに むかって
  ゆめを おいかけて いこう
ページの先頭へ戻る